運勢は勢い、いい時は全力で恋愛を
モーリス・メルロー・ポンティ
話している時には、私は、自分のなすべき諸運動を表象するわけではない。ちょうど私の手が、私に差し出されたものを取るためにひとりでに動くように、私の全身体的装置が、語に追いつき語を発語しようと集まるのである。
科学は知覚された二つの線が、実在の二つの線と同様、等しいか不等かのいずれかであることを要求する。そして両義性ないし「ぶれ」(bougé)を許容し、文脈によって形が決定されるということが、知覚された物の本質に属することを見ようとはしない。
制限があるとはいえ、私達が住むのはこの空間ですし、この空間と私達はさまざまな身体関係を維持しています。私達は、各々の事物に一種のスタイル、実際に人間の鏡であるような存在のスタイルを見出します。
世界には私たち〔ヨーロッパ人、大人、そしておそらくは男性〕だけがいるのではなく、世界は動物、子供、未開人、狂人にも開かれています。彼らは自分たちなりのやり方で世界に住み、彼らもまた世界と共に実存しているのです。
習慣とは、我々の「世界への(における)存在」(l'êtreaumonde)を膨張させる我々の能力、あるいは新しい器具をおのれに添加することによって実存を変える我々の能力、の表現である。
われわれは無規定なものを積極的な現象と認めなくてはならない。性質がわれわれのまえに現れるのは無規定性の雰囲気においてである。性質の含む意味は多義的な意味であって、そこでは論理的意義よりもむしろ表現的な価値が肝心なのである。
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