生きることは奇跡ではなく、生きて感動することが奇跡、恋愛も
…生きているということと死んでいるということは同じことだと日頃からうそぶいていた始祖タレスは、それならなぜ死なないのかと人に問われて、生きているのと同じことだからと答えたという。
生死の相対性を超えたところの、あるいはそれらがそこから出てくる、絶対的な「存在」、それは何か、哲学の思索の醍醐味は、いよいよここからである。
じっさい、このような言い方は可能なのだが、生きながら死んでいる、かの「永遠」を思うその時間、思考の切っ先が幽明の境に溶け出していくような、自分が誰で誰が何なのか、およそ知り得ないということすらむしろ快いような、それはその意味で至福の時間である。
いや時間ではない。形而上には時間はないのだから、「存在」と触れ合ったその刹那、全方位に底が抜ける万象の光景というべきだろうか。これはいったいどうしたことなのだという謎の感覚だけが、時に鋭く立ち上がる。
今ここに(生きて)いることの奇跡、とは、正確にはこのような事態を言うだろう。
死なずに生きていることが奇跡なのではない。それは奇跡の意味とはならない。
存在が存在すること、その謎に驚いている自分が存在するということ、このことが奇跡なのだ。 すなわち、謎なのだ。
謎を見てしまった者にとっての幸福とは、何か、謎と心中するといったようなことに似てくるだろう。言われていることの意味は、もはや不明である。
しかし、観念にすぎない死を恐れ、観念にすぎない死後を空想するところの、その意味での不幸は、真正の形而上学を経ることで、何がしか甘美な困惑へと変貌するはず、そのことだけは確かである。
池田晶子
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